ひとつの介護の実例として、
私の母のことを、またご報告させていただきます。
3月に母が胃瘻(いろう)になったことを書きました。
その後、4月中旬に無事、病院を退院することができました。

幸いなことに、これまでずっと入所していた老人ホームに戻ることができました。

 

問題は胃瘻(いろう)でも老人ホームで対応できるのかという点でしたが、
対応していただけました。

母が入所している施設では、胃瘻(いろう)は初のケースだったそうですが、
職員の研修を実施するなど受け入れの準備をしてくださり、戻ることができました。
退院して1か月が経ちますが、何も問題は起きていません。

 

当初、施設の人たちから、母が流動食をとるときは、
食堂で他の方と一緒にしましょうと提案されました。

食べる楽しみのひとつは、他の人と一緒になること。
母の場合、ほとんど話さないのですが、
顔を合わせるだけでも、意味があるはずです。

私もそれに賛成でした。

 

ですが、結局、母は自分の部屋で流動食をとることになりました。

他の人が食べているところを見たら、母も食べたくなってしまう。
だけど、食べられない。
それは辛いことだと。

 

それもそうです。
目の前で美味しそうに食べているのを、自分は食べずに見ているのは、
確かに辛い。

食堂に行かなくても、何か食べたいと思うのではないか。
とも思いましたが、
幸いなことに、認知症のせいもあるかもしれませんが、
母が食べたいということはほとんどないそうです。

退院してから、母は徐々に元気を取り戻してきました。
顔色も気持ちよくなりました。
自分からしゃべるようになりました。
以前はテレビをつけたことがなかったのに、
つけるようになりました。

テレビ番組はつまらないと言い出したので、
DVDプレイヤー(3,000円!)と映画ソフトを買って行きました。

先日の母の日には、月並みですが、
カーネーションの鉢植えを持って行きました。

 

先日、妻から

「本当に胃瘻(いろう)にして良かったのか」

と、詰問されました。

「仕方ないだろ!」

ちょっとした口論になってしまいました・・・。

妻は、胃瘻(いろう)に疑問をもっています。

食べられないのに生きていくのは辛い
と考えているのです。

わたしが、ろくに悩みもせずに、
医者から言われて、その場で胃瘻(いろう)を決めてきたことも
疑問に思っているようです。

妻のいうことも分かります。

わたしも、当初は、

「食べられないのに生きていくのは辛いから胃瘻(いろう)はしない」
と思っていました。

 

でも、胃瘻(いろう)するかどうかに直面したとき、

選択肢は、

1 何も栄養を与えない。
2 口から食べさせる。ただし、誤嚥性肺炎になる可能性が高い。
3 胃瘻(いろう) 本人に痛みなし。
4 鼻などから栄養摂取 本人に痛みあり。

しかありませんでした。

 

このとき、1を選ぶことはできません。

2は、死ぬ危険もありますし、入退院を繰り返す、
病院で長く過ごすことなどを考えると、やはり選べません。

3と4のどちらか。
母には苦しんでまで生きていてほしいとは思いません。
4を選ぶことはできません。

結局、3の胃瘻(いろう)しか残らなかったのです。

ほかに選べなかったのです。

本当に、食べられなくても生きている意味があるのか?

何か食べること以外に生きがいを感じるものがあればいいのですが、
何も生きがないのない母。

ただ単に生きている。
それだけいいのか?

たびたび、そう考えてしまいます。

 

でも、ただ生きている。
それだけでも意味はあるのではないか。

そう思いたいと、思っています。

母は、食べることはできませんが、
徐々に元気になったので、
テレビ番組や映画を見たり、
共有スペースで他の入居者と話をしたり、
散歩に連れて行ってもらたり、
しています。

 

それでいいのかな。

と思っています。

  老活コンサルタント(弁護士) 大竹夏夫